わたしの話
高校一年生の八月。
わたしには、なにも残らなかった。
それでもわたしの過ごした八月を本に、文章にするのなら。
それは彼女の話ではなく。
わたしと彼女の話でも、なくて。
ただ、わたしの話だった。
♪
わたしは、頭の中に妖精を飼っている。
『サヤカ』
サヤカ、ねえサヤカ。誰かが、わたしの名前を呼ぶ。
ベッドの上で、眠れずにじっとしていたわたしは、すぐに誰かの声に反応した。
……『誰か』、なんて。本当は、誰がわたしの名前を呼んだかくらい、わかっている。
「どうしたの、ティー」
わたしは、声の主の名前を呼んでから、転がっていたスマートフォンを手に取る。スマートフォンの電源を入れる。真っ暗な部屋で、ちかちかと画面が光る。
眩しい画面によれば、現在時刻は深夜二時。明日は平日だから、朝六時には起床して、高校に行かなければならない。そうなると深夜二時は、誰かとお喋りするにはちょっと遅い時間帯だ。
それでも、わたしはティーを見捨てられなかった。
ティーがわたしに話しかけたということは、わたしがそれを望んでいるということ。ならば、わたしはティーに応える義務があった。
『なんだか、眠れないの』
ティーは幼い少女の声で、わたしに甘えた。どのように甘えればわたしが応えてくれるか、ちゃんと知っている者の甘え方だった。
「奇遇だね」
暗闇に慣れた目で、薄暗い部屋の天井を眺める。この部屋に、わたしはひとりきりだ。
だけど、確かにティーは此処にいる。だって、ティーの声が聞こえるのだ。
「わたしも、眠れないんだ」
意識して、唇を笑みのかたちにしてみた。ティーに気を使っているのではない、わたしは本当に眠れなかったのだ——という状態が、伝わるように。
ティーの安心する気配がした、ような気がするから、笑うことにはきっと、成功したのだろう。
『じゃあサヤカ、いっしょにお喋りしましょう』
「うん、いいよ」
瞼を閉じる。ティーの姿を想像する。頭の中でのみ響くティーの声を、かたちあるものと妄想する。
それから、わたしだけの部屋で、わたしたち二人は、お互いが眠りに落ちるまで語り続けた、
わたしの頭の中では、わたし以外の声が聞こえる。
その声は、小さな女の子を連想させる、高く可愛らしい声で、わたしに話しかける。
その声は、わたしにしか聞こえていない。わたし以外の人間には、聞こえていない。
わたしは、頭がおかしいのかもしれない。もしかすると、病気なのかもしれない。
それでもわたしは、少女の声を誰にも相談せずに、ひとりきりで抱えている。
姿の見えない、可愛らしい声の主は、自らを妖精と言った。わたしはそれを信じた。
そしてわたしは、彼女に『ティー』という名前を与えた。
ティーはわたしの、たったひとりのともだちとなった。
♪
ティーの声が聞こえ始めたのは、高校に入学して二週間が過ぎた頃だった。
高校には、中学のときの友達はいなかった。元々、わたしはその状況を望んで、この高校を選んだのだった。
自宅から電車でおよそ一時間。そこそこ遠い高校を選んだ理由は簡単で、見知らぬ世界で冒険してみたかったからだ。自由な校風に憧れたから、でもまあ、ある。
とにかくわたしは、わたしのことをあまり知らない人たちと、新しく関係を繋いでみたかった。
わたしは暗くて大人しい人間で、そんなわたしがわたし自身を好きかと言えば、そうではなかった。だから、変われる機会をわたし自身の手で作った。
勇気を出して努力すれば、明るくて元気で、友達がたくさんできる、素晴らしい人間になれるはずだと思っていた。
環境を変えれば、わたしも変われるとばかり思っていた。
後から考えればすぐにわかることだ。もちろん、現実はそんなに簡単ではなかった。
わたしは高校入学後、たった二週間でひとりぼっちになってしまった。上手く知らない人に話しかけられず、知らない人から話しかけられた際にちゃんと応えられなかった結果が、これだ。
休み時間のたびに苦痛を感じた。ひとりで食べるお弁当の味は寂しかった。無理矢理ひとりで無事に過ごすため、学校に持ってくるようになった文庫本は、既に五冊目に突入していた。放課後は逃げるようにすぐ教室を出た。
わたしはたった二週間で、選んだ高校を後悔し始めていた。
中学の友達と同じ高校を選んでいたら、こんなことにはならなかったのだと思う。
ただ、中学の友達がほんとうに友達だったかどうかは、大分怪しかった。中学生のわたしは、みんなの後ろについていくだけの存在だった。みんなが遊びに行くのにわたしだけ誘われなかったことはよくあった。影で笑われていたことも知っていた。
だからわたしは彼女たちと離れた。別の高校をこっそり選んだ。
本当のともだちを求めて、わくわくしながら高校を見上げた、二週間前の入学式。
もう、あの胸躍る感覚は、どこからも湧いてこなかった。
登校して高校を見上げるたび、わたしは憂鬱な気持ちに支配されていた。
そんな暗く寒しい春の日々に、ティーはいきなり出現した。
『サヤカ、元気ないね』
自室で宿題に取り組んでいる最中に、わたしは誰かに話しかけられた。
「え……」
どこからか声がした、のはわかった。母親の声ではない、のもすぐにわかった。もっと、可愛くて、高くて、甘い甘い声だった。
部屋を見渡す。誰もいない。
『わたしはここよ。ここにいるわ』
「どこ? どこにいるの」
姿のない声の主に、わたしは何故か、恐怖は感じていなかった。不思議な話だ。わたしは臆病で、とても怖がりなのに。
『わたしはサヤカの中にいる』
「わたしの……中?」
『そう!』
より少女の声を聞きとれるよう、集中して耳を澄ます。
『わたしは妖精。立派な名前はまだないけど、困った人を助けるのが、妖精の仕事なの』
「……ええと」
『ほんとうはね、ニンゲンに声をかけてはいけないんだ。……でも、サヤカがずっと困ってたから、耐えきれなくて、話しかけちゃった』
この存在は、わたしのためになにかをしてくれた。それが、わたしにはとても嬉しかった。それだけで、妖精とやらの存在を、あっさり信じようと思えた。
「その……妖精さん。ありがとう?」
『礼を言われることはしてないわ。わたし、なんにもしてないの。頑張ったのは、サヤカでしょう?』
「わたし、なにかやったかな」
『ひとりきりで、二週間頑張った』
ひとりきり。ずしりと、その言葉が心に沈む。
「好きでひとりぼっちなわけじゃ……ないよ」
『わかってる。わかっているわ、サヤカ』
妖精はわたしを優しく宥める。彼女と話していると、涙がこぼれそうだった。
わたしが、どれだけ高校生活に苦しんでいるのか、彼女は知っているのだ。
『サヤカは十分頑張ったもの。もう、頑張らなくていいと思うの』
「いいのかな……」
『サヤカは自分に厳しいのね』
わたしは妖精のかたちを想像した。空想を現実に映してくれるよう、祈った。
部屋にはまだ、わたしひとりだ。
『でも、あんまり厳しいと潰れてしまうわ、サヤカ。もっと気楽に生きましょう?』
ずいぶん勝手なことを言う空想だった。やはり、わたしの味方はいないのだろうか?
「無理だよ……」
『大丈夫、これからはね、わたしも一緒だから!』
「無理に決まって……えっ?」
『わたし、これからサヤカとずーっと一緒にいる。カミサマにも許可をもらったの。だから、寂しくないわ。サヤカはもう、ひとりきりじゃないの』
「……え、」
『わたしたち、おともだちになりましょう? ね?』
「……」
脳が、ついていけない。
姿の見えない声。妖精。わたしと一緒にいてくれる。
わたしをわかってくれる。わたしのともだちに、なってくれる。
「……妖精さん」
『なあに?』
「あなたの姿を見たいのだけれど、駄目?」
『それは無理だわ』
「どうして?」
『だって、わたしはサヤカの中にいるもの』
「わたしの中って、どういうことなの?」
『妖精はね、この世界では生きていけないの。だから、人間に宿って、その人間とだけ、言葉を交わすのよ』
「その人間とだけ? もしかして、あなたの声はわたしにしか聞こえないの?」
『ええ、そうよ』
「そうなんだ……」
わたしは思考を巡らせる。これは夢じゃないだろうか。あるいは、わたしの妄想じゃないだろうか。
その可能性が一番高かった。妖精は、わたしを知っていて、わたしに優しい。あまりにも、わたしに都合が良かった。
それでも、いいや。
夢でも、妄想でも。幻聴でも、病気でも。
わたしは彼女を信じたかった。
「……あのさ」
『なあに? サヤカ』
彼女はわたしの名前を、当たり前のように、昔からそう呼んでいたかのように、気安く呼ぶ。
母や父とはまた違う呼び方で、久しく呼ばれていない呼び方だった。彼女の可愛らしい声がわたしの名を特別なものにした。わたしは簡単に心を許す気になった。
「あなたの名前を付けても、いいかな。妖精さん、じゃあ呼びにくいから」
『わあ、良いの!?』
彼女はわたしの行為をためらいなく喜んだ。嫌がるかも、とも思ったのだけれど。
やっぱり、妄想なのかな。
でも、それがどうしたのだろう。
妄想で、なにが悪いのだろう。
「『ティー』。あなたの名前は、ティー」
『ティー。ティー……』
「だ、駄目なら駄目って言ってね。別の、考えるから」
『ううん。ティー、ティーがいいわ!』
妖精の、ティーの声が一段と跳ねる。騒がしくない、心地よい高さの声は、わたしをどこまでも安心させる。安心させてしまう。
わたしは目を瞑って、ティーのかたちをもう一度想像した。——きっと、可愛らしい声の似合う、可愛らしい小さな女の子。妖精なのだから、羽も生えているかもしれない。
目を開けた。誰もいない。
それでも、わたしは、ティーを選ぶことに決めた。
「これからよろしくね、ティー」
誰もいない虚空に向かって、笑顔を作ってみた。ティーは笑顔を褒めてくれた。どこまでも、彼女はわたしに優しいのだ。
『よろしく、サヤカ!』
♪
ティーがわたしの生活に舞い降りてから、わたしは少しだけ明るく毎日を過ごせるようになった。
『わたしは、サヤカが静かにしてほしいときは、静かにしているからね』
ある日、ティーはそう言った。
『でも、サヤカはいつだって、わたしに話しかけていいから』
誰かが傍に居てほしいと思ったとき、ティーはわたしに話しかけてくれた。それ以外のときは、静かに、黙っていた。わたしが話しかけると、どんなときでも応えてくれた。
わたしはティーという存在に、ずぶずぶと沈んでいった。ティーと言葉で触れ合う時間は、どこまでも気楽で、対人のストレスを一切感じさせなかった。
わたしが好きなものは、ティーも好きだった。あるいは、好きになってくれた。
わたしが悲しいときは、慰めてくれた。悲しませた人間や境遇を怒ってくれた。
わたしが嬉しいときは一緒に喜んでくれた。誰かと喜びを分かち合うことが、ここまで楽しいものだったと、わたしは久方ぶりに実感した。
いつだってティーはわたしの味方だった。
ティーという架空の存在は、寂しさを紛らわすには、ペットよりはるかに便利な存在だった。
♪
蝉の声がうるさい。窓から射す日光に、じりじりと焼かれる感触がする。汗が次から次に流れ、その度にタオルでぬぐう。八月の教室はあまりにも暑くて、授業を受けるには明らかに不快な場所だ。
教壇に立つ国語教師が、ひたすら黒板に白い文字を書き散らしていく。その背中が汗でびっしょりと濡れているので、かわいそうだなあと思った。職員室ならクーラーがあるのに、こんな地獄で仕事をしなければいけない教師が、かわいそう。
『サヤカは優しいのね』
集中できなくなって、教師の言葉が頭に入らなくなったあたりで、ティーが話しかけてきた。
「(そんなことないよ)」
そもそも、生徒が赤点を取らなければ、夏休みに補習をする必要はない。わたしは赤点を取ってしまったから、他の数名の生徒と一緒に補習を受ける羽目になった。つまり国語教師が今暑さに苦しんでいるのは、わたしたちのせいだ。
『あの試験、問題の出し方が卑怯だったもの。サヤカの点数が悪かったのは、仕方のないことよ』
うちのクラスでは、赤点を免れた生徒が大半だった。わたしの点数が悪かったのは、決して試験の問題が悪かったわけではないのだろう。
それでもティーはどんなときでもわたしの味方だから、わたしに優しい答えを出す。
「(そうかもね)」
わたしはその答えに、甘やかされる。
ティーは、わたしが頭の中でティーへの返答を作れば、いつだってそれを受け取ってくれた。つまり、声に出さなくてもティーとの会話は可能なわけで。
そうするとわたしは授業中でもティーに話しかけるようになって、すっかり授業に集中できなくなってしまった。赤点を取ってしまったのも、当然の結果だろう。
『それにしても暑いわ。早くクーラー導入すればいいのにね』
ティーがはたして暑さを感じるかどうかは分からない。けれどわたしは「そうだね」と相槌を打った。
鐘が鳴って、補習も終了した。わたしはティーとお喋りばかりしていたから、せっかくの補習の内容も、あまり頭に入っていない。これはもしかすると二学期も赤点かもしれない、と考えると少しだけ憂鬱になる。
『サヤカ、帰りにコンビニでアイス買わない?』
わたしの心境とは裏腹に、ティーはどこまでも気楽で自由だ。
「(アイスかあ。何にしようかな)」
『この間、新商品が出たでしょう。テレビで広告してた。あれにしたら?』
「(そうだね。そうしようと思ってたところ)」
『わあ、そうなの? わたしたちって、息ぴったりね!』
ティーが笑った。わたしも笑った。ティーは所詮、わたしの妄想なのだから、考えが一致するのは当たり前だった。
それでも、わたしは「そうだね」と返した。
『さあサヤカ、早く帰りましょう。ここに居たって、なにも——』
「——明屋さん?」
わたしの肩が勢いよく跳ねた。女子に後ろから声を掛けられた。明屋さん。わたしの名字を、間違いなく呼んだ。
おそるおそる、振り返る。そこには、ショートヘアの女の子が立っていた。同じクラスで見かけたことがあると、遅れて気づいた。
「あはは、やっぱり明屋さんだ」
名も知らぬクラスメイトは、快活に笑う。
「いやー、見事に赤点取っちゃってさー。補習、他に女子いないなーってがっかりしてたけど、明屋さんがいたんだね。よかったよかった!」
「え……えと」
なんと返せばいいのか。ここ数か月ずっと、家族やティーとばかり話していたので、わたしは同年代との正しい会話の方法を忘れてしまっていた。
「それにしてもコクちゃん、もうちょっとわかりやすく解説してくれていいのにって思わない? あ、コクちゃんって国語教師の国沢のことね」
「……そ、そう。だね」
クラスメイトはにこにこと笑っている。なにがそんなに楽しいのだろう。わたしはちっとも楽しくない。わたしの様子がおかししいから、愉快でわらっているのだろうか?
「あ、明屋さんって家どっち方面? 川の方?」
相手の言葉を頭に入れて、考えて、わたしも言葉にする。それだけ、のはずなのに、それだけの行為に、ひどく時間がかかってしまう。
「わ、わたし、電車で……駅に、行く。から」
「へえ、電車通なんだー! 大変じゃない?」
すらすらと言葉が出るクラスメイトに対して、わたしはひとつひとつの単語をつっかえつっかえ出すから、会話のテンポが不規則になっている。わたしがたどたどしく返事をするまで、彼女は次の言葉を待っている。
「……そ、それなりに」
待ってくれているのに、大した返事ができないから、情けなくて死にそうになる。
「あはは。それなりってなんだよー。明屋さん、おもしろいね!」
それなのに彼女は、楽しそうに笑う。
「じゃ、明日もよろしくね! 補習仲間としてさっ」
ばん、と背中を軽く叩かれて体が固まった。そんなことも気にせず、クラスメイトは笑いながら教室を出て行った。去り際に、わたしに「バイバイ」と手を振った。
わたしはしばらくぼんやりと、起こった出来事を考えていた。
そして、改めて思う。
「……誰だっけ、あの子」
わたしは、彼女の名前を知らない。
『あのクラスメイトの女の子』
夜、自室でベッドに転がっていると、ティーはそう切り出した。
『サヤカと、おともだちになりたいのかもしれないわ』
それは違う。彼女は、補習を受けている女子が他にいないから、わたしに話しかけてきただけで。
『でも、帰り際にお話ししたでしょう。帰り際よ? おともだちになりたくないのだったら、わざわざ話しかけないと思うわ』
「……そうなのかな?」
ティーの発言はわたしが信じたくなるものばかりだから、容易に縋りたくなってしまう。
『明日、また話しかけてくるかもしれない。そのとき、今日よりもっとおはなしできるようにしておきましょう』
明日。明日も、補習がある。あの子に、会えるかもしれない。声を掛けてくれるかもしれない。
ざわざわする。どきどきする。明日の訪れが恐ろしくて、けれど、楽しみでもあった。
「そういえば、アイス買ってないね」
『びっくりなことが会ったから、すっかり忘れちゃってたわ』
確か、高校から自宅への帰り道で、ティーは一言も喋らなかった。
♪
次の日、わたしは昨日よりも早い時間に高校へ到着した。
誰もいない教室で、教卓の上の座席表を確認する。これを見れば、どの席に誰が座っているのかすぐにわかるのだ。あとは、あのクラスメイトの座る場所を知れば、彼女の名前がわかる。
早く、来ないかな。
補習を受ける生徒たちが、まばらに教室に入ってくる。あの子はまだ来ない。
他の生徒の視線が、一瞬わたしに突き刺さる。……座席表から離れられないせいで、わたしは教卓の近く、黒板の前、本来なら教師が立つところに立っているのだ。
恥ずかしい。顔が熱い。この作戦は、失敗だったのかもしれない。
『サヤカ、嫌だったら戻りましょう。別の方法であの子の名前を知れたらいいじゃない』
ティーの言う通り、おとなしく教卓を離れた方がいい。わたしは目立つのが苦手なのだから。
でも。
「やだ……」
ちゃんと名前を知って、相手の名前を呼びたかった。同じクラスなのに名前を知らないなんて、わたしは失礼すぎる。
『サヤカがそう言うのならば構わないけど——』
「そんなところでなにしてるのー?」
「ひっ!?」
心臓が飛び出そうになる。真横にあの女の子が立っていた。いつの間に教室に入ってきたのだろう。
そのまま、女の子はわたしの手元を覗き込む。
「なに? 座席表?」
「あ、え、えっと」
まさか、教室に来ていきなり話しかけられるとは! 昨日は帰り際だったので、思いっきり油断していた。
「あ、言い忘れてた」
——な、なにを?
「おはよっ、明屋さん」
彼女は笑顔で朝の挨拶をした。わたしの心境など、何も知らずに。
「お、おはよ……」
「うむ!」
腰に手を当て、満足気な表情を作る。かと思えば、すぐにそのポーズを解いた。
「ってか、ほんとになにしてたの明屋さん? ここに立ってるときに、コクちゃん入ってきたら睨まれちゃうよ?」
「そ、それは……」
「それは?」
どうしよう。なんて答えよう。ティーは何も言わない。こんなときに限って。わたしは、なんと言えば。
「なまえを、調べたくて」
馬鹿なわたし! 簡単な嘘くらい、咄嗟に吐けばいいのに!
「名前? 誰の?」
彼女は首を傾げる。
「ははあ。さては……」
「……っ」
「もしかして明屋さん、私の名前知らなかった?」
……バレてしまった。
名前を知らなかったということは、興味がなかったということと同じだ。わたしはあなたに興味がありませんでした。だからあなたの名前を覚えていませんでした。どう聞いても最低だ。
目頭が熱い。ここで泣くな。ここで泣くとか、彼女にとって意味不明だ。ああでも、せっかく声を掛けてくれたのに。
仲良くなれるかも、しれなかったのに。
わたしは、しばらく無反応だったのだと思う。それでも無理矢理自分の体を動かして首を縦に振り、頷いた。
「ぷっ……」
彼女は口元を押さえて震えている。今のは、吹き出した音?
「——あはは!」
彼女は豪快に笑い始めた。わたしは呆けることしかできない。
笑っている? どうして?
「ひっどいなーもう! 同じクラスになって、もう四ヶ月だよ? まあ、明屋さんらしいけどさー」
わたしらしい? どういうことだろう。
「明屋さんって我関せずって感じだから、もしかして覚えてないかもとはまあ、思ってたんだよね。昨日話しかけたときも、誰こいつ? って顔だったし!」
わたしって、そんな印象を持たれていたんだ。というか、顔に出すぎじゃないだろうか。
「え、えと、その、ごめんなさい」
「あー、いいっていいって! 今まで話したことなかったし」
それから、彼女は座席表のある個所を指さす。
「ここ、私の席ね」
指が置かれた場所に書かれていた名前は。
「……宮崎、叶さん?」
「おう」
名前を呼ぶと、彼女が、宮崎さんが返事をした。したり顔の宮崎さんを見ると、笑ってしまった。
「宮崎さん……」
「なんだよー」
宮崎さんは肘でわたしを小突いた。同年代独特の、身体の触れ合いによるスキンシップ。久しぶりに、感じた。
そのあたりで教師が入ってきた。わたしたちは慌てて自分たちの席へ戻った。
国語教師が話し始める。どうにも頭に残らない声だと思う。
宮崎さんの席は、わたしの席より前方にあった。
わたしは心の中で、宮崎さんの背中に向かって、宮崎さんの名前を何度も呼んでみた。宮崎さん。宮崎さん。宮崎、叶さん。
その日も、補習には集中できやしなかった。
♪
ティーとの日々は、それなりに楽しかったのだと、思う。
けれど『それなり』であって、満足とは程遠かった。
四月。ティーが出現してから、わたしはクラスメイトを個人として見ず、クラスメイトという役割の存在とだけ認識するようになった。
それは、わたしを守るための思い込みだった。そうすることで、わたしはティーだけに耳を澄ませていればよくなったのだ。
日々は緩やかに過ぎて、あっという間に八月になった。毎日はティーと共にあった。
ティーはわたしに都合が良かった。それでも、わたしは繰り返す毎日に飽きていた。
別に、死んでしまいたいわけじゃ、なかった。わたしはそこまでなにかに追い詰められてはいなかった。このくらいで死にたいと思うことは、全世界の不幸な人々にあまりにも失礼だ。それに、汚い死体で親に迷惑を掛けたいわけでもない。
なにも変わらない日々。変えられなかった日々。笑い合うクラスメイト達を見て、あそこに自分もいたはずだと未練がましく想像した。
母と父はわたしを子供としてしか見ていない。ティーはわたしの便利な味方で、それ以上でもそれ以下でもない。
わたしは空っぽな人間だ。良いところはなにもない。誇れるところもなにもない。素直になれない。他人に優しくない。自分にだけ甘い。人と上手に話せない。好きな趣味もない。特技もない。
わたしはどこまでも空っぽな人間だ。
なのに、そんな空っぽな人間と一緒に居てくれる、現実の『誰か』を望んでいた。
♪
ベッドの上は空想に適した場所だ。わたしだけの部屋で、わたしは殻に籠もり、頭の中で空を飛ぶ。
つい昨日まで、空想の相手はティーだった。彼女の声と台詞を、頭の中で練り上げた。
けれど宮崎さんという現実に触れてしまった今、ティーという非現実のキャラクターではちっとも楽しめなかった。
「……宮崎さん」
名前を呼んでみる。頭の中の宮崎さんが、「なんだよ」と言って笑う。
おともだちに、なりませんか。わたしは宮崎さんにそう尋ねる。宮崎さんは喜ぶ。「よろしくな」と言って笑う。
わたしは宮崎さんに色々なことを話してみた。宮崎さんはそのたびに大きな反応をくれた。
気づくと、深夜十二時になっていた。二時間も、わたしは宮崎さんとお話ししていたのだ。つい、夢中になりすぎてしまった。
明日からは数学の補習が始まる。わたしが赤点を取ったのは国語だけだった。もう、わたしが行く必要はないのだけれど。
「……行ってみようかな」
補習は自由に参加できる。もしかすると、宮崎さんに会えるかもしれないのなら。
わたしは小さな可能性に、賭けることにした。
「明日も会えるといいね」
宮崎さんにそう声を掛けてから、部屋の電気を消した。
頭の中の宮崎さんは、いつも楽しそうに笑っている。
♪
「よっ、明屋さん」
予想は的中した。宮崎さんは、数学の補習にも来ていた。
「お、おはよう」
「はよーっす。なんだ、明屋さんも数学赤点だったん?」
「う、うん」
わたしは嘘をつく。あなたに会う為にわざわざ学校まで来た——なんて言って、引かれたくはなかった。
「数学難しいよなーっ! さっぱりわからん!」
「う、うん。そうだね」
勢いよく喋る宮崎さんに必死でついていく。とにかく、返事をもたつかせないように。昨日、イメージしたときのように。
「せっかくの夏休み、補習で台無しだし。早く家に帰りたいっつーの」
「うん。あ、あついし、ね」
ああ、でも、宮崎さんは長袖の白シャツを着ている。あまり暑さを感じない人なのかもしれない。だとすると、「あついしね」は間違いだ。間違いの返答をしてしまった。
「そうだよーっ、暑いんだよーっ。やってられん! アイスくれーっ!」
と思ったけれど、彼女自身が「暑い」と言っているので正解だったのだろうか。長袖は単なるファッションのようだ。同じクラスにも、夏なのに長袖の白シャツを着ている女子はいた。そういう子達は、袖部分を捲り上げて着ているのだ。そんなことするなら、初めから半袖を着ればいいのに。
この考えは口に出さない。人を不快な思いにしてはいけない。
「アイス、おいしいよね」
「お。そこ突っ込む?」
——だ、駄目だったのだろうか。
「明屋さんはさー、なんかおすすめのアイスある?」
「おすすめ……」
考える。この間買おうとした、広告を出している新商品アイス。小さいころから売っている、チョココーヒー味のお気に入りアイス。どちらをおすすめすればいいだろう? どちらだったら、宮崎さんはがっかりしないのだろう。
いや、他にも候補はある。
たとえば、コーンのついたチョコレートアイス。お餅で包まれたバニラアイス。まだまだアイスの種類はある。いったい、どれをすすめれば——、
「明屋さーん?」
「えっ」
「いや、急に黙っちゃうからどしたんかな? と思ってさ」
「あっ、えっ」
しまった。おすすめアイスの選別に集中しすぎて、返答までの時間が長引いてしまった。こうだからわたしは駄目なのだ。人との対話において大事なものをすぐに忘れてしまう。
いや、後悔するのは今じゃない。今はそう、アイスの話。どれでもいい、とにかくどれかのアイスをおすすめして、別の話に繋げないと。
「あ、あのね、宮崎さん」
「おう?」
「アイス、なんだけど」
そのとき、補習担当の数学教師が教室に入ってきた。教師が席に座れ、と呼びかけると、他数名の自由に喋っていた生徒たちが急いで座っていく。
わたしたちも席に戻る。
数学教師が教壇に立ち、教科書を開くよう指示する。それから、黒板に文字を書いていく。文字を書いていく……。
わたしは開いた教科書を見つめながら、アイスについて考える。昨日、宮崎さんが声を掛けてくれたのは、教室に入ってきたときと、補習が終わったとき。まだ、会話のチャンスはあるはずだ。
やっぱり、お気に入りのチョココーヒー味のアイスをおすすめしよう、と思う。そのあとの会話はどうしよう。宮崎さんがおすすめのアイスを食べたことがあるのなら、感想を聞いてみよう。味の好みで盛り上がれるだろうか。宮崎さんがもし、おすすめのアイスを食べたことがないのなら、食べてみなよと、言ってみよう。——一緒にアイスを食べる? その方向に持っていけるだろうか。宮崎さんの自宅は多分、わたしとは違う方向にあるから、一緒に帰ろう作戦は使えない。帰り道が同じではないのに一緒にアイスを食べる……ということは、つまり、遊びのお誘いにならないだろうか。いきなりそんなことをすれば、宮崎さんは引くだろうか。友達でもないのに。そう、まだともだちじゃないのだ。まず、ともだちになりましょうと、伝えないと。それから、アイスを並んで食べるお誘いを……。
できるだろうか。宮崎さんの背中を見る。いや、できるはずだ。わたしはまだ変われるはずだ。空っぽだけど、それでも。
だって、宮崎さんは、優しいから。
優しい。そう、宮崎さんは優しかった。二日前に、わたしに話しかけてくれて。あなたの名前を知らないと言ったら、笑い飛ばしてくれた。昨日の夜は二時間も、わたしのおしゃべりに付き合ってくれた。
だから、きっと大丈夫。おともだちになりましょう。きっと、大丈夫だ。
宮崎さんはノートを書いている。わたしは宮崎さんの背中を見つめる。
教師の声は今日も、頭に入らない。
今日の分の補習が終わった。教師が教室を出ていく。生徒がいっせいに騒ぎ出す。宮崎さんが立ち上がる。
わたしは宮崎さん、と声を掛けようとした。
けれど宮崎さんはわたしの方を見もせず、足早に教室を出て行った。
♪
「宮崎さん、どうしたんだろう」
いつものベッドの上で寝転がると、癖で想像が働き出す。
何か用事があったのかもしれない。急いで帰る用事、そう、誰かと遊ぶ約束、とか。ずきりと胸が痛んだ。宮崎さんはわたしのものではない。多分、色んな人の友達だから。わかっているけれど、わかっているのだけれど。
別の可能性も考えてみた。わたしと話す機会を作りたくなくて、さっさと帰った。……ありえる、と思う。わたしだって、もしわたしみたいな奴がいたら避けたくなるだろう。おともだちになりたい、という言葉は嘘だったのだろうか。いや、宮崎さんはそんなこと言ってないのだ、まだ。あれ、誰の言葉だっけ?
「嫌だなあ……」
後者はともかく、前者の考えまで『嫌だ』と思ってしまうことが嫌だった。宮崎さんには宮崎さんの世界があるのだから、勝手にわたしが『嫌だ』と感じることはおかしいのだ。わたしはそれ以上深く考えたくなくて、前者の可能性を頭の中でゼロにした。
後者の考えは、どうだろう。わたしともう喋りたくない。それは悲しい。すごく悲しい。今から、印象を挽回できないだろうか。
「宮崎さん」
頭の中で、宮崎さんに尋ねてみる。宮崎さんはどうして、わたしに声を掛けずに帰ってしまったの。
宮崎さんはちょっと申し訳なさ気に、笑って答える。「外せない用事があったから」——そっか、用事か。じゃあ、しょうがないね。
ねえ、宮崎さん。わたしのこと嫌いになりましたか。宮崎さんは首を横に振った。それならわたしと、ともだちになってくれませんか。宮崎さんは笑う。「いいよ」と答えてくれる。
そこまで想像したあたりで、わたしは少し安心して、眠りに入ることができた。
わたしはまだ空っぽだ。
だから、空っぽを変えてくれる『誰か』が、欲しい。
♪
数年前の昔のこと。
わたしは、ある物語のヒロインに憧れていた。
そのキャラクターは児童書のシリーズ物の女主人公で、新刊が出るたびに大変なことに巻き込まれていた。けれど、最終的には大活躍して事件は無事解決、めでたしめでたしとなるのだ。
ヒロインは、異世界に迷い込んだり、魔女と戦ったり、吸血鬼と友達になったり、とにかく冒険三昧な日々を送っていた。そして彼女は元気で前向きで素直な良い子だったから、登場人物すべてから慕われていた。
わたしはヒロインに魅了され、そうなりたいと幼心に願った。そうなれると信じていた。
現実はそうではないと、わたしはしばらく後になって気付いた。
毎日は冒険もなく、怠惰に過ぎていく。何も変わらない、繰り返しの日々。何の意味も残せない。つまらない生活。
本になるような毎日はどう頑張っても送れなかった。わたしを主人公にしたら、とんでもなくつまらない文章ができあがってしまうだろう。あるいは、書くことがなさすぎて、白紙の本が出来上がるかもしれない。
素直な良い子にはなれない。ひねくれて考えてしまうから。元気な子にはなれない。どうしてもそう振る舞えないから、前向きにはなれない。後から後から嫌なことばかり、思い出すから。
わたしは、憧れたヒロインから遠い遠いところに立っていた。
あの本の中で、ヒロインは死んでしまう呪いをかけられたことがある。登場人物たちは、ヒロインが死んでしまうことをなによりも恐れ、皆必死で呪いを解決しようとしていた。もう少しで死にそうな場面では、皆涙を流していた。
わたしがもし死んだら。両親は泣いてくれると思う。中学までの友達は、まあ、知ったら一瞬は悲しんでくれるかもしれない。それだけだ。それだけなのだろう。
わたしは特別性を欠片も持っていなかった。だから、高校生活でなにかを変えようと足掻いてみた。
足掻いてみても、なにも変えられなかった。
誰の目にも止まらないわたしは、妖精という架空の存在を作った。
幻聴ではなく妖精としたのは、単純にわたしの好みだろう。あのヒロインも、人間の振りをしている妖精、という設定だった。
ティーという名前は、わたしがかつてこうなりたいと願った、ヒロインの名前そのままだった。わたしが呼ばれたかった名前だった。
ティーという存在に入れ込むことで、わたしは無理やり鮮やかな世界を諦めていた。
けれど、宮崎さんとなら。
わたしの文章に色が着くかもしれなかった。わたしの日々を本にして、面白くページを捲れるのかもしれなかった。
宮崎さんと、鮮やかな世界で生きられるかもしれなかった。
わたしがわたしを、好きになれるかもしれなかった。
♪
次の日、数学の補習。宮崎さんが教室に入ってきたとき、わたしは驚いた
「み、みやざき、さん」
「ん? おはよ、明屋さん。どしたん?」
「か、顔……。どうしたの?」
宮崎さんの右頬に、青い痣ができていたのだ。とてもとても、痛そうだった。
「あー、ちょっと階段で転んじゃってさ」
宮崎さんは恥ずかしそうに笑って、痣がないほうの頬を掻いた。
「だ、大丈夫なの……?」
「うんうん。問題なーし。だから、な。気にすんな」
「わ、わかった」
気にするなと言われたら、気にしてはいけない。踏み込み過ぎると、嫌われてしまうかもしれないから。わたしは宮崎さんの言う通り、宮崎さんの痣を気にしないことにした。
「うーむ……」
「宮崎さん……?」
宮崎さんは、なにやら唸っていた。いつもより、落ち着きがないような。
「明屋さん、ときに相談なんだけどさ」
「な、なにかな?」
相談。相談をされるということは、わたしはともだちとして認められたのだろうか。
「補習、絶対受けなきゃいけなかったりする?」
「べ、べつに平気……だよ?」
そもそも数学の補習は、受ける必要もないから。
「よーし、じゃあさ!」
と叫んで、宮崎さんはわたしの腕を掴む。わたしの頭がパニックになっている間に、宮崎さんはわたしの腕を引っ張った。
「ちょっと抜けようぜ!」
抜ける? いったいどういうこと?
宮崎さんの顔を見る。満面の笑顔だ。
だから身を任せてしまおう、と思った。
わたしたちは教室を勢いよく飛び出した。
♪
公園のベンチに座る。日光で熱くなっていると予想したベンチは、存外ぬるかった。小さなドーム状の建物の下に位置しているおかげで、ベンチがドームの影の中にあるからだろうか。
すぐ近くには噴水があった。少し作りが古い。水が勢いよく流れ落ちる音がして、それだけで涼しいと錯覚させた。
「なんか急に付き合わせてさー、ごめんね」
コンビニにひとりで寄っていた宮崎さんが、わたしの隣に座った。コンビニ袋からアイスを二つ取り出し、一つをわたしに手渡す。
「はい。明屋さんおすすめアイス〜」
わたしはアイスを受け取った。アイスに触れる指が、一気に冷たくなる。
「あ、ありがとう。ごめんね、お金……」
「いーのいーの。こんな炎天下に連れ出しちゃったお詫びって言ったでしょ?」
「で、でも」
「はい、このハナシは終了。今日のアイスは、私のおごり。ね?」
「うん」
「ほら、はーやく食わんと溶けちゃうぞ〜?」
「わ、う、うん!」
わたしは慌ててアイスの包装を破る。棒付きの茶色いアイスが中から出てきた。棒を掴み、アイスを口に含む。最初は舐めるだけ。うん、やっぱりおいしい。
「これ、んまいね」
宮崎さんもアイスを口にしている。いきなりかじりついたみたいだ。
わたしも真似してかじりついてみる。口の中でしゃきしゃきと音がした。
「さすがおすすめのアイスは一味違いますな」
「あ、ありが、とう?」
「あはは、なんだその変なお礼はっ!」
「宮崎さん、今日は」
今日は、一体どうしたの。そう尋ねようとした。
「明屋さん」
けれど言葉を宮崎さんが遮った。
「気にしないで」
先ほどの痣と同じ。わたしに気にしないよう、言った。
「……わかった」
嫌われたくないから、わたしは宮崎さんの言葉を鵜呑みにする。
それからわたしたちはアイスを黙々とかじった。そうするとすぐにアイスの終わりがやってきて、手持無沙汰になってしまった。
セミの鳴き声と、噴水の音。遠くではしゃぐ小学生らしき子供の声。それらを聞きながら、わたしたちはしばらく黙っていた。
「明屋さんってさ」
沈黙を破ったのは、宮崎さんの方だった。
「な、なあに?」
「明日の英語の補習も参加するん?」
「えっと……」
赤点を取らなかったから、参加しなくていい。
「み、宮崎さんは……?」
「私? 私はまあ、赤点取っちゃったから」
「わ、わたしも、赤点……」
けれどわたしはまた、嘘をつく。
「お、まじで? じゃ、学校行く気になるかも」
その言葉が嬉しくて、わたしは笑った。わたしの嘘を知らない宮崎さんも、笑った。
それからわたしたちは色々な話をした。最近のテレビ。流行っているもの。クラスメイトの恋バナ。好きな食べ物。嫌いな教師。
話題を振るのは宮崎さんの役目だった。わたしは宮崎さんから尋ねられたことに回答し、宮崎さんに同じ問いを投げかけた。それに宮崎さんが答える。宮崎さんが新しい話題を振る。その繰り返し。
わたしはすっかり会話に夢中になっていた。宮崎さんが楽しそうに笑うからだろうか。わたしも、とても楽しい気分になるのだ。
「ま、明日センセーに一緒に怒られよ?」
突然、宮崎さんがそんなことを言った。
「え?」
「ほら、補習抜けちゃったから」
「あ、うん。そうだね……」
本当は、わたしは補習を受ける必要がなかったから、わたしは怒られないと思うのだけれど。
今更、アレは嘘ですとは言いづらかった。
「うん。一緒に、怒られよう」
どうせ明日か、それより後にバレてしまうとしても、今は嘘を嘘のままにすることにした。
宮崎さんに会う為に補習を受けたのだと、言えなかった。わたしにとって宮崎さんの存在はとても大きかったけれど、それを悟られて逃げられるのが恐かった。
バレたときに、謝ろう。宮崎さんは優しいから。きっと許してくれるだろう。
そろそろ帰ろう、という話になって、わたしたちは公園を出た。宮崎さんの家は駅とは別方向とのことだったので、公園を出てすぐ、わたしたちはお互いに背を向けた。
わたしは少し歩いて立ち止まった。名残惜しくて振り返る。宮崎さんの背中が、どんどん離れていく。
「ま、また明日!」
わたしは思わず叫んでいた。驚いた顔の宮崎さんが、こちらを振り返った。
宮崎さんはにかっと笑った。
「おう、また明日!」
今日は夢のような一日だった。
ベッドに横たわる。何度も何度も、公園での宮崎さんとの交流を思い出した。そのたびに、顔はにやけてしまっていた。感情が爆発するまま、脚をばたばたとばたつかせる。
宮崎さんと仲良くなれた。いや、これからもっと仲良くなれるかもしれない。
公園で宮崎さんがよく喋ったから、夜はわたしが一方的に喋った。宮崎さんは笑って、相槌を打ってくれた。
明日は何を話そう。何を一緒に笑おうか。今日が楽しかったのだから、明日も楽しいだろう。期待はどんどん膨らんでいく。
ああ、明日と言う世界が、きらきらと輝いている。
♪
次の日、宮崎さんは学校に来なかった。
わたしは補習開始の鐘が鳴るまで宮崎さんを待った。補習が始まってからも、宮崎さんを待った。
けれど、宮崎さんは現れなかった。
そういう日もある。体調が悪いのかもしれない。急用ができたのかもしれない。
補習中、わたしは宮崎さんに明日掛ける言葉を考えていた。夜はひとりきりの自室で宮崎さんとお話しをした。
次の次の日も、宮崎さんは学校に来なかった。
英語の補習の最終日だ。宮崎さんは初日の英語の補習に来ていたから、今日だって来なければいけないはずだった。
どうかしたのだろうか、とわたしは思った。思うだけだった。だけど口に出した生徒がいた。
「せんせー、宮崎はなんで来ないんですかー?」
男子生徒だった。補習を一度さぼったことを教師に注意され、じゃあ他の来ていない奴どうなんですかと文句を言った。宮崎さんの成績が悪いことは、クラスでは周知の事実だったようだ。
「宮崎は、いいんだ」
教師はそう返した。
わたしたちは、なにかを察した。
補習終了後、教師に呼ばれて職員室を訪れた。担任の教師に手招きされて、わたしはそちらへ移動した。
「明屋、宮崎と仲良かったそうだな」
「え……」
補習に来て一緒に喋っていたところを、教師に見られていたようだ。
「他の宮崎の友達にはもう伝えたから、明屋で最後なんだが」
担任教師はそう言って、わたしの知らない話を語り始めた。
「一昨日の夜、宮崎が死んだ」
宮崎叶の父親が暴力を振るった。普段から暴力を振るっていた。家庭内暴力。だからその日の暴力も日常だった。違いは、過度の暴力で宮崎さんが、宮崎叶が死んでしまったことだ。挙動不審の母親から、警察に電話があったという。娘が動かない。警察が駆けつけたときには、彼女は死んでいた。間に合わなかった。なにもかも。はじめから。
真夏の長袖。青痣。気にすんな。また明日。
また明日。
♪
わたしの父と母にも連絡が入っていたらしい。両親はわたしを気遣った。わたしが夕食を食べたくないと言うと、普段なら怒るのに今日は自室に通してくれた。
わたしは自室に入って早々、ベッドの上に転がった。
「宮崎さん」
頭の中で宮崎さんが返事をした。笑ってこちらを振り向いた。いくつもの宮崎さんが浮かんでは消えて、浮かんでは消えた。暴力とか、虐待とか、そんな要素は欠片も感じさせない、快活な笑みだった。
宮崎さん。宮崎さん。宮崎叶さん。
一昨日見た、青痣のある宮崎さんを思い浮かべた。
「気にすんな」——宮崎さんはそう言った。けれど本当は、気にしてほしかったのではないだろうか。わたしが踏み込んでいれば、なんとかなったのではないか。青痣のわけを聞いて、教室を飛び出したわけを聞いて、宮崎さんの現状を教えてもらって。
宮崎さんをわたしの家に連れて帰れば。わたしの両親は悪人じゃない。理由を話せばわかってくれる。担任教師に連絡して。警察に連絡して。それから。それから。
わたしは想像を止めた。もう、全部、遅い。
「宮崎さん」
涙で、視界が滲む。シーツを強く握り締める。ごめんなさい。ごめんなさい。わたしは、わ
たしは多分、間違えていた。一昨日だけじゃなくって、彼女と過ごした日々全部を、わたしは
きっと間違えた。
わたしが見た宮崎さんはいつも笑っていて、綺麗だった。どこまでも。でも、それは本物じゃなかった。わたしは、頭の中で描いた宮崎さんを見ていた。目の前にいた本物の宮崎さんを、見ていなかった。
苦しむ宮崎さんを見なかったから、空想の宮崎さんはいつだって笑っている。
それが無性に悔しくて、やるせなかった。
「ティー」
久しぶりに、その名を呼んだ。あの甘く可愛らしい少女の声で、わたしを慰めてほしかった。
けれど、ティーの声はもう聞こえない。
「ねえ、ティー」
無様にティーの名を呼ぶ。何度も呼ぶ。ティー、ねえ、返事をして、ティー。
ティーの声は聞こえない。
わたしが、ティーを放っておいてしまったから、ティーを組み立てられなくなったのだ。四ヶ月間わたしの中で生きて、わたしを健気に支えてくれたティーは、たった数日で死んでしまった。
わたしひとりの部屋で、わたしはひとりぼっちになった。
宮崎さんのことも、わたしは思い出さなくなるのだろうか。そうしたら、宮崎さんも再び、死んでしまうのだろうか。
いいや。わたしは笑顔の宮崎さんしか、思い出せない。それは、宮崎さんでは、ない。
「ティー」
名を呼ぶ。返事はない。
「宮崎さん」
返事はない。
「どうして」
誰も応えない。
「どうして、わたし」
『誰か』が一緒にいてほしかった。わたしを変えてくれる『誰か』が欲しかった。その条件さえ満たしていれば、きっと、『誰か』は、誰でも良かった。
都合の良い誰かを探していた。間違いがその時点からならば、わたしの存在自体がもう、間違っていた。
「ティー」
ティーは、わたしにとって都合の良いことしか言わない。
「宮崎さん」
宮崎さんも、わたしにとって都合の良いことしか言わなかった。
けれどそれは、空想上の話で、
現実の宮崎さんは、空想通りじゃなかった。
高校一年生の八月。
わたしには、なにも残らなかった。
それでもわたしの過ごした八月を本に、文章にするのなら。
それは彼女の話ではなかった。
わたしと彼女の話でも、なかった。
ただ、わたしの話だった。
それだけだった。
それだけにしか、ならなかった。