星の子
作曲:真島こころ

真島こころ
感覚を大切に。即興のピアノ演奏にて作曲をしている。
自分を取り巻くことを日記のように描く作曲スタイルで
日々、曲を作って記録している。
穏やかさ、そして切なさ、弱さ故の力強さを込めて
その瞬間の感覚をそのまま残すように、表現している。
また、オフィシャルウェブサイト『君の音。』では、
素材利用可能な楽曲も多数展示している。

星と人の子

 目を覚ます。
 少女は、黒の世界を漂っていた。
 瞳に映っている色は、黒だけ。恐れてしまうような、物陰の黒ではなかった。光を失くした闇とは正反対の、透明な黒。
 少女はたっぷり時間をかけて、失っていた意識を取り戻す。随分長い間、眠っていたらしかった。
 そうして回復した感度を辿って、少女はようやく、今の状況が不可思議まみれであることに気づく。
 頭のてっぺんから、裸足のつま先まで、黒が少女を包み込んでいる。辺りは静寂に満ちていて、音ひとつ聞こえない。音という概念が、世界からはじき出されたかのようだった。
 かたちにはならない波が、優しく少女に触れ、離れ、また触れる。夜の海を彷徨っているのだろうか、と少女は思った。
 手のひらを突きだして、両の腕を伸ばしてみる。身体がほぐれる心地よい感覚を期待したものの、何も訪れない。少女のか細い指先は、世界にただひとつある黒だけを引っ掻いた。
 両脚も、うんと伸ばす。足の裏は、記憶にある地面を捉えなかった。予測はしていたので、落胆はしない。
 首を回して、周囲を見渡す。右も、左も、上も、下も。全部、同じだ。ひたすら、透き通った黒があるだけだ。
 少女は、今更ながら疑問を浮かべる。はたして、此処は何処だろうか。
 ふと思いつくままに、右脚を前に出してみた。地面も床もありはしない。けれど、黒の宙に投げた右脚は、沈むことはなかった。
 右脚に体重を乗せて、身体を前に出す。左脚を前に出す。左脚に体重を乗せる。身体を前に出す。右脚を前に出す。その繰り返しで、少女は黒を進んでいく。
 その感触は、“歩く”よりも“泳ぐ”に似ていた。少女は、黒を泳いでいく。
 少女の心に、ぼんやりともう1つ疑問が浮かんだ。
 はたして、己は誰だったのだろう。


    ♪


 指を折って、纏わりつく黒の波を握りしめようとした。けれど指の隙間から、波はするりと流れ落ちて、少女の手から簡単に逃げてしまう。同じ動作を何度も繰り返して、少女はやっと波を手に入れることを諦めた。
 あれから少女は、ひたすら黒を泳ぎ続けている。
 当てもなく彷徨っているわけでは、ない。名前も知らぬ何処かを目指して漂っているのだ。きっと何処かに、終わりがある。少女はそのように信じていた。この世界を閉じる終焉が、少女の行く先なのだと。
 それにしても。
 少女の視界に映る色は、ずっとずっと、黒だけだ。変化のなさに、つまらないとは思わない。なにせ、あまりにも綺麗な黒だから、決してつまらないとは思えないのだ。
 それでも、流石に変化を見たい。
 少し悪戯心が芽生えて、歩幅を変え、軽くスキップをしてみた。すると少女の動きで、新しい波が生まれる。新しい波は元からある黒の波と衝突して、小さな飛沫をあげた。
 そして少女は途切れ、姿を失った。
 一瞬にも永遠にも似た時間を過ごし、少女は再び呼吸を始める。顕わになっていく少女自身の肌色を目の当たりにして、ほうと息を吐く。
 波は静かに、世界を漂っている。
 突然の出来事だった。けれど確かに、少女は消滅した。そして理解する。
 この世界で、少女という存在は、あまりにも儚いものだと。
 既に、少女の感覚は黒に支配されていて、少女の手から離れつつある。
 今の今まで、なにかに手招かれるまま、少女は此処まで泳いできた。果たして、それで良かったのだろうか。軽率で、はしたないもの、だったのかもしれない。
 わずかに逡巡する。
 そして少女は、また泳ぎだす。
 軽率でも、はしたなくても、少女は進みたいと思った。
 終わりに、行き着きたい、と。
 少女にはおそらく、終わりしかないのだ。どうしようもなく足掻いた果てに、この黒に落ちたのだ。
 ならば、せめて最後は。
 だから、少女は泳ぎ、漂う。


    ♪


 1時間か、1日か、1ヵ月か。いつまでも泳ぎ続けた少女の視界に、初めて変化が現われた。
 黒いだけの世界に、新しい色があった。足元が、光で輝いていた。
 布に針で空けた穴のような小さな点が、百や千、いやそれ以上に群がって、光の海を作っていた。
 少女は時間を忘れて、そのうつくしい光景に見入っていた。
「綺麗ね」
 音を耳が拾って、少女はそこでようやく、少女自身が喋った事実を知った。口から音を出し、言葉をなぞる行為を、今の今まで忘れていたのだ。
「ほんとうに、綺麗」
 今度は意識して、言葉を紡いでみる。漏れた音があまりにも細く頼りないものだったから、少女は小さく笑ってしまった。
 弱弱しい少女とは裏腹に、足元の光はますます輝きを増す。その光たちを眺めて、少女は唐突に、此処が終点なのだと把握した。
 ゆっくりと膝を曲げ、腰を下ろし、膝小僧を抱える。光はますます数を増やし、広がり、その集まりは、いつの間にか少女の全身より大きくなっていた。
 そうして、終点に辿り着いた少女は、銀河に呑まれる。
 黒と光が、混じり合う。それらが絡まり踊る姿を見ながら、少女はそうっと瞼を閉じた。
 遮断したはずの視界を飛び越えて、世界がより鮮明に、少女の中心に流れてくる。小さすぎる光の集合と、巨大な黒を感じ取った
 やがて少女の身体の輪郭が、ぼんやりと曖昧になっていく。思考すら、心すらも、境界線を見失っていく。少女が、黒に溶けていく。
 ふと、少女は自分以外の存在の気配を感じ取った。かたちは見えない。けれど確かに、傍にいるのだ。おそらくその存在も、少女と同様に、黒に溶けていく最中なのだろう。あるいは、溶けたあとなのだろうか。
 姿のない存在は、そっと問うてくる。しかし少女は、すぐには問いの意味を飲みこめなかった。単語を繋ぎ合わせ、表情を想像して、少女はようやく問いの内容を知った。
『——ねえ、これまで、どんな世界にいたの?』
 そう、名も知らぬ存在は語りかけてきたのだ。
 どんな世界だったのか。少女は思いを巡らせる。なにかを思い出そうとして、そのおぼろげな線だけを霞め取る。何度も頭で答えを捏ねて、少女はやっと、少女の答えを出した。
「優しい世界だったわ」
 少女の柔らかな唇から、言葉は零れて、黒に溶けていく。同時に、感情も、少女のこころと頭から、零れていった。
「悲しいことがあった。つらかったこともあったの。嫌な気分にもなったわ。泣いて、怒って、落ち込んだ」
 少女はひとつひとつを思い出しては、忘れていった。悲しいということを。つらかったということを。嫌な気分になったことも。泣いて、怒って、落ち込んだことも。
 口に出した瞬間、言葉を理解し、言葉を理解した瞬間、記憶が滑り落ちていった。
「わたしなんて、この世界にいない方がいいって、何度も思った」
 名も知らぬ存在の気配が、不安そうに滲む。少女は与えてしまった不安を祓ってやりたくて、次の言葉に力を込める。
「でもね」
 闇が動く。世界が、少女の言葉を待ち焦がれているかのように。あるいは、少女を慰めるかのように。
「楽しかったの。嬉しかったの」
 少女は、涙が零れそうだ、と思った。けれど予想に反して、涙は流れない。涙や、瞳や、涙が伝わる頬すらも、少女はもう失くしたのだ。
 唇も、黒に呑まれた。それでも言葉を生み出して、少女はだれかに想いを伝える。
「感謝したいことがいっぱいあった。感謝したい人が、たくさんいたのよ」
 すべては、少女が置いてきた世界のものだった。きっと、置いていくつもりは、なかったのだ。もっとずっと、それこそ永遠にでも、少女はそれらを抱えて、歩んでいくはずだった。
 唐突な終わりが、少女だけをこの黒に連れてきた。
「優しい世界だったの」
 優しい世界、だったのだ。すべて、少女にとっては過去のものだ。少女はもう、あの世界には戻れないから。
 そうして、少女を取り巻くかつての世界が、どう優しかったのかは、もはや思い出せない。
 名も知らぬ存在が、ふるりと身体を震わせた。少女が闇に溶かしてしまった身体を、その存在はいつの間にか取り戻していた。
『——わたしも、生きていける?』
 どうだろう、と少女は思う。環境や人が、名も知らぬ存在——彼女を、どのように歓迎するかは、少女も彼女も分からない。彼女が選択できることではないし、少女は止まってしまったから、知る術すらない。
 けれど、確かに少女は、優しい世界に在ったのだ。そうしてできれば、こんな場所で出会った彼女にも、優しい世界を知ってほしかった。
 それに、黒に瞬く光が、あまりにも綺麗だったから。
「ええ。きっとだいじょうぶ」
 彼女は、その返事に安心したのか、またぶるりと身体を震わせた。さらに勢いよく、下へ下へ降りていく。少女が漂う、黒から遠ざかっていく。
 その背に、少女は「いってらっしゃい」と声を掛けようとした。しかし少女の声は、もはや声にならなかった。
 ひと際、大きな光の海が、少女と少女だった黒をまるごと呑んだ。


    ♪


 そうして、少女だった魂は、夜空を彩る星のひとつになった。
 少女が最後に思いを馳せた、悲しくて楽しくて優しい世界では、かつての少女と同じ種族の生き物が、何の気もなく空を仰いでいた。
「今日の星は、綺麗だなあ」
 誰かが、そう呟いた。
 

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