氷雪の少女のこれから
目の前には、春が広がっていた。
桃色の花弁をひらひらと舞わせる桜並木。
名も知らぬ小鳥たちが、機嫌良く声を響かせる。
雪が、頼りなくふわふわと降りてきた。手の平に着地したそれは、当たり前のように溶けて形を無くす。
春が広がっていた。
かつての白雪の世界は、どこにもなかった。
少女は、冬が嫌いだった。
それでも冬は常に少女に憑いていた。
この極寒の地に何故訪れたのか、少女は何も覚えていない。気付いたときには白雪の世界に立っていて、気付いたときにはその境遇を受け入れていた。
はじめの頃は、不安なんてなかった。なにかを思うことすらなく、少女は冬と共に日々を過ごしていた。
そうして少しずつ、本当に少しずつ、少女は少女自身の体質を理解していった。
例えば、なにも食べなくても生きていけること。
例えば、触れたものを凍らせてしまうこと。
例えば、この世界は最初から白雪だったわけではなく、少女がいるから、白雪になってしまったということ。
それらの特徴が、普通ではないということ。
長い時をかけて、ようやくそこまで思い当った少女は、人知れずひっそりと涙を流した。
少女が連れてくる冬は、草木や花の生命を奪い、ただ白いだけの景色を作る。
吹き荒れる吹雪の中、動物や人間の姿は見当たらない。少女はひとりぼっちの少女しか見つけられない。誰かいませんかと、小さな希望を込めて歌うも、歌声は吹雪に掻き消されるだけ。
白雪の世界には、命あるものすら凍らせてしまう少女しか、存在しない。
だから、少女は冬が嫌いになった。
ここじゃない何処かへ行けば、冬から逃れられるのではないかと、思った。少女はすぐに否定する。結局、ここじゃない何処かが冬になってしまうだけだ。冬は少女が連れているのだから。あるいは少女に冬が憑いているのか。
どちらでもよかった。何処へ行っても同じだと言う結論は、変わらない。
挑戦することすら、恐れた。もし、何処かにいる人間を自らの手で凍らせてしまったらと思うと、恐ろしくて仕方なかった。
何処にも行けない少女は、何処にも行けないまま願うしかできなかった。
いつか、春が芽吹きますように。いつか、冬が去りますように。
願うしかできなかったけれど、毎日、強く強く願った。春の訪れは、少女のかけがえのない希望で、叶うことがない夢だった。
何度も何度も、心の中で春を描いた。目覚めれば、きっと雪は溶けている。何度も何度も、妄想した。微かな朝日で起床するたび、今度こそ、と信じた。
だが、春の景色は幻で、いつも通りの白雪が少女を迎える。少女はその度に心の底から落胆した。
それでも、少女は諦めなかった。
いつまでも、いつまでも春の芽生えを願い続けた。
そして、目の前には春が広がっている。
何故だろうか。どうして、だろうか。願いが、ついに届いたのだろうか。そんな疑問は興奮が押し潰す。とにかく、嬉しくて嬉しくて踊りたくなった。
喜びの感情を乗せて、少女は高らかに歌いだす。桜の美しさを讃え、小鳥の可愛らしさを褒める。歌声は吹雪に掻き消されることもなく、高い高いあの空へも届きそうで、楽しくなった。
歌い終わって、少し心が落ち着いた。
思う。これから、どうしようか。
この地が冬ではなくなったということは、少女の身体から冬が去ったということだろう。ずっとずっと願っていた夢が、叶ったのだ。
それに、こころなしか、身体がいつもよりぽかぽかしてる気がする。久しぶりに、思いっきり歌ったからだろうか。
いや、と先程手の平で溶けた雪を思い出す。少女はおそるおそる桜並木に近づき、太い木の幹にそっと触れた。
桜に変化はない。凍てつかず、そのままにあった。
勢いよく扉を開けた。鮮やかな絵具で塗りたくった壁が少女を出迎えて、少女は思わず苦笑する。
少女は、気付いたときからここにあった、誰のものかもわからない空き家を生活に利用していた。最小限の家具しかない、白い家だ。
白い家のある一室の壁は、元々は白かったのだけれど、少女が絵具でごちゃごちゃな色にしてしまった。春を実際にこの目で見てみたいと思うあまり、自ら春を作りだそうとしたのだ。結果は、うまくいかなかったけれど。
そんな壁に見守られつつ、少女は棚からある本を取り出した。何度も読み返したせいでページが擦り切れてしまった本を、ぱらぱらと捲る。
本は、この白い家にはじめからあった。何冊も積まれていたが、長い年月の間にすべて読んでしまっている。どの本の何ページになんと書いてあるのか、ある程度暗記してしまっているくらいだ。
今捲っている本は、その中でも一番お気に入りだった。なにせ、春が書かれてあったから。
春は、ぽかぽかと暖かく、動物は冬眠から目覚め、植物は綺麗な花を咲かせる。少女はこの本で、春を学んだ。春に憧れた。春を、夢見た。
そして、本の中で、人間は人間に出会う。
少女はぱたんと本を閉じる。裏表紙の桜の絵を、そっとなぞった。
誰かに会ってみたいと思った。春を誰かと過ごしてみたいと、思った。
春の訪れだけで十分だと考えていたのに、随分強欲になったものだ。それでも、ずっとひとりぼっちだった少女は、会ってもいない誰かを夢想した。
もう、冬は憑いていない。ならば、誰かを困らせることもないだろう。
ならば。
誰かに、会いに行きたい。
ぽかぽかの陽気が気持ち良くて、少女はうんと伸びをした。チュンチュン、と小鳥の声。膝に乗せたスケッチブックに、桜の花びらが落ちてくる。
花びらを拾い、ふっと微笑む。春を眺めて、気を取り直し、少女は再び絵を描き始めた。スケッチブックに、さらさらと鉛筆が滑る。
誰かに会う。そのために、少女は、この地を去ると決めた。もう白雪の世界ではなくなったのだから、ひたすら待っていればいつしかこの地にも誰か来るのかもしれない。しかし、ずっと待っているだけなんて、もう耐えられなかった。身体は今すぐ動き出したがっていた。これも、春の作用の内なのだろうか。
この地を去ると決めたから、この地の景色を残しておくことにした
春は見たまま描けばよかったのだが、冬を描くのが問題だった。白雪の世界がなくなってしまったから、記憶を掘り起こして頭に冬を思い浮かべる。これがなかなか、上手くいかない。あんなに長い間、冬と共にあったのにも関わらず、だ。
少女にとっての冬は、すっかり春に上塗りされてしまったらしい。ところどころうろ覚えの冬を、時間をかけてようやく描き終える。
つらく、寂しく、嫌いなだけだった冬も、過ぎ去ってみれば、親しみが湧いた。
今まで、ありがとう。感謝の言葉を口にして、少女は立ち上がる。一緒に持って行くと決めた絵描き道具一式を手に持ち、一歩、踏み出した。
そのとき、春を満喫していた小さな鳥が、肩に止まった。そっと触れても、凍てつくことはない。
この子も一緒に、何処へ行きたいのだろうか。
小鳥は何も答えなかったが、そうだと言っているような気がした。いきものの愛らしさに、自然と笑みがこぼれる。同行者が満足するまで、肩に乗せてやればいいだろう。
少女は新天地に向けて、歩く。雪が溶けた後の湿った土には、薄く足跡が残った。
たったそれだけが、無性に嬉しかった。
少女が何故生まれたのか。それは誰にもわからない。
少女は歌う。きっと、どうでもいいことなのでしょう。
――冬が終わり、春が芽吹いた。ああ、その事実で、私は十分なのです。
――これは、幻ではないのですから!